チュニジアの青年を悼む詩

Img_2465 チュニジアの自殺した若者を悼んだ詩をの朗読を聞いた。アラビア語でないとダメだから、ということで朗読はアラビア語で、後から英語訳をしてくれた。

チュニジアの詩人 モハメッド・スガイル・アワッド・アハマッドの詩。タイトルは 「Brtterfly」

as you stared into the ashes,
you saw me.
black, like your shining shoes.
I cannot bear to stare at you
I am Tunisia, my brother.
Burnt
I have no hair.
I have no eyes.
I have no ears.
I have no lips.
and as you can see, I may not return to life.
and I may return,
Frank, like a rooster's crow.
Don't give me a pen.
my fingers ascended to the sky with the awesome fire.
Can you smell the burning flesh?

I am Middle Tunisia.
I live off contentment and rain.
I am Greater Tunisia.
A destiny.
I am the Other Tunisia.
From my ashes, I crate.

私の勝手な訳  「蝶」

灰の中をのぞきこんでくれたので、あなたは、私を見つけてくれた。
黒、あなたのぴかぴかした靴の色のような私。
私は、見つめかえすことはできません。
きょうだいよ。 私は、チュニジアです。
今、燃えつきようとしています。
私は、もう髪がありません。私は、目もありません。私は、耳もありません。唇もがありません。ごらんの通り、私は生き返らないでしょう。
でも、私は戻れるのかもしれません。
実際のところ、あとはオスのカラスが好きなようにするのかもしれません。

どうかもう私にペンを渡さないでください。。
だって私の指は、ものすごい火で空にのぼってしまったのです。
燃えている肉のにおいをかぐことができるでしょう?
きょうだいよ、私は、チュニジアです。
私は、雨を受け満足に満ちて生きています。
私は、より偉大なチュニジアです。
運命でしょうか。

私はそれでも、チュニジアです。私の灰の中から、創り出されるものです。

ズィクルの概念

Img_2509 「家族と死者祭祀」比較家族史学会監修 早稲田大学出版会。 赤堀雅幸先生の「死をめぐるイスラームの儀礼」だけを読んだ。

ベドウィンの老人が亡くなった際にたまたまその場所に居合わせたことで、葬儀に参列する。その流れ。

西砂漠、リビアに近い所に住む定住ベドウィン、彼らに喪に服し、墓に参る目的を尋ねると、「死者に対するズィクル」だという。この場合はズィクルは死者に思いを致すことだという。

 『ズィクルはアラビア語では「思い出」と訳されるが、ここでは死者への記憶ということにとどまらず、その記憶を喚起する行為を含めて使われている。 聖者墓参拝をもズィクルのためだとするならば、それは記憶をたどるより、思念をこらす行為を指す。親族や聖者参拝だけでなく、スーフィの儀式をもズィクルと呼ばれるように、アッラーの栄光をたたえるという意味をも持つ、広がりのある概念である。』

次は、同シリーズの別の本を読むべし・・・だね。

デモは続いている。殺人も続いている。

Img_2432 モロッコ人。フランス在住の作家 タハール・ベン・ジェルーンのメッセージ。ベン・ジェルーンは「砂の子供」を書いた人。

アラブの知識人、アラブの作家は危険にさらされながら、怒りを隠さず、文字に変えることでこぶしを振り上げている。モハメド・ブアジジ。チュニジア革命の火花となった青年についてのくだりは、ともかく泣ける。

今もシリアでは虐殺が続いている。アルジェリアでも。イエメンでも。

暮れに部落解放運動を今も続けている知人に、久しぶりに 本当に久しぶりにお会いした。四半世紀経って、変わらず「戦い」続ける彼。まるで時間が止まってしまったかのように感じられた。否定はしないが、肯定もできない。

元日はロゼッタストーン

Img_2431 年末からずうっと読み続けていた本。元日に読了。

グルノーブル時代のシャンポリオンについて、知りたいと思い読み始めた一冊なのだが、知りたいことがありがたく親切に書かれていて、あと数冊を続けて読もうかと思ったけれど、しばらくは良いかなというくらい満足。

1801年10歳で兄のいるグルノーブルに移ったシャンポリオン。ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、カルデア語を学ぶ時代。この間、兄は革命で零落した人から本を買っては蔵書を弟に利用させた。フーリエとの出会い、コプト語との出会い、後付けで歴史を振り返ると、古代エジプト語解読へのまっすぐの道が彼の前にひかれたように見える。実際の紆余曲折の中ではそんなまっすぐな道など到底見えなかったのかもしれないが、グルノーブル大のカノポス壺との出会い、ナポレオンとのわずかな会話、ナポレオンの戦勝でパリになだれ込んだバチカンの蔵書の研究など、やはり彼の前には運命ともいうべき道があったように思える。それにしても天才って、天才なんだなあ。

2011年最後になったのは・・・

Image2この本に出会えてよかったなあという読後感を残したまま年を越せたというのは、ひょっとしたらとても幸せなことかもしれない。

「聖カタリーナ修道院文書の歴史的研究」中央大学の松田俊道先生という方の書かれた本。タイトルの通り、修道院が所蔵する文書を読み解くことで、あるいは体系的に列挙することで、ズィンミーを取り巻く世界を解析してゆく試み。

知らなかったのだが、聖カタリーナ修道院は3300もの古写本と1700もの古文書を持っており、それらはバチカンに次ぐ重要なものなのだそうだ。シナイ古写本、5世紀のシリアご福音書、7世紀のアラビア語キリスト聖者伝など。

ここでは古文書から推察されるイスラーム世界で生きるキリスト者が、どのような盟約や、協約や、発布や、ファトワーなどと絡んでいたのかということ。 古いものはファーティマ朝時代をはるかに遡上し、預言者ムハンマドの銘文などまで登場する。修道院と修道士の保護、ジズヤ、ハラージュの決定など、まさにイスラーム帝国勃興の時代の歴史が文書で残されている。キリスト者が迫害され激減してゆく時代の中でどのような発布があり、どのような事件があり、裁判があり、決定があったのか。貴重な一冊だと思った。

エジプトのサウラ

Img_1361Img_1359 片方は朝日新聞の川上氏、片方は東京新聞の田原氏、それぞれがご覧になったエジプト革命。条件は違う。川上氏はエジプト特派員としてアレキサンドリアに暮らし、カイロは勿論数時間で行くことができる。田原氏はまだ40代てアラブ体験年齢も違うし、革命後2週間後に日本からカイロに向かう。

川上氏の方は岩波ブックレットで、約一ヵ月間に書き続けた新聞記事、Asahi中東マガジンの記事がほとんどそのままで、燃え上がるエジプト人と同化したように熱いのだ。一方田原氏の方は離れてみていた分、遅れて書いた分、分析・検証の思いが強い。「まさか、同胞団と一緒に戦うとは思わなかった」って。ほんとだよね。

ナポレオンのエジプト

Img_1122 原題は「Mirage」蜃気楼。1878年5万の兵隊と151人の学術隊がエジプトに上陸。アレキサンドリアからカイロへの移動は、7月の酷暑。砂漠の恐ろしさも知らず、水もろくに用意せず出発したことで、その途上で数100人の兵隊がが亡くなったという。崩れ落ちるようにして動けなくなる兵隊がいる一方で、学者は目の前に現れては消えてゆく蜃気楼の不思議さに魅せられ、科学的な解明をしようと決意する。

学者の業というのは あるのだなあと 最近痛感する。普通は・・・とか 常識的に考えると・・・とか 人として・・・とか これがあたりまえ・・・とか 人間関係とか・・・そういうなりわいなど持っちゃいないのだ。学者に学究以外のことなど求めちゃいけないのだ。つまり、そんなことを取り繕おうとしているひとは学者じゃあないのだねと、そんなことを本の中と、本の外で思った。

ニナ・バーリー。この人はフランス人は嫌い、エジプト人も好きではない。一体ナニ様?と思ったらアメリカ人だった。

夜明けのコロー

Img_0283 夜明けの風景を見たくて、ヒロシは一人で暗い村を歩くのだそうだ。一緒に行ったことがないので、想像するしかないのだけれど、湿っていて、寒いのだそうだ。それでも太陽が上がってくるといっぺんに温かくなって、やがて屋根や壁が金色にそまるのだそうだ。

これはまるでコローの風景画みたいね。

オステルリー ド ルベルノワ 

Img_0348Img_0355Img_0347Img_0349Img_0350Img_0357Img_0360Img_0365_3Img_0367Img_0370 ボーヌの街を歩いた後の2泊目のディナー。

ボーヌではガスパール・モンジュの銅像があり、うれしい出会いでした。モンジュは数学者でナポレオンの学術隊メンバーの一人として1878年にエジプトにわたっています。墓は、パリのペール・ラシェーズにあり、シャンポリオンの墓を探している時に見つけました。ボーヌの英雄だったのね。

このホテルのレストランは赤を基調としたデザインで、今まで見たことのなかった色合いでした。明るい赤なのだけれど、お皿やグラスやワインの色にも続いて、全体的にしっくり合っていました。

オテル・デューに行きました。

Img_0315Img_0325Img_0328Img_0331Img_0333Img_0343 ボーヌのオテル・デューは元は病院だったそうですが、屋根が色がわらできれいでした。しかし、外から見ると普通の建物で、きれいな屋根を目当てに探していたので、目の前にあったのに、なかなか分かりませんでした。

«Hostellerie de Levernois